昭和四十五年二月一日 月次祭
二月一日のお月次祭を無事に、只今終わらせて頂きました。只今お供えになりました川のものが、今日は赤と黒の鯉がお供えになっておりますがね。赤の方の緋鯉の方はね、丁度十五日の日に、もう白い腹を上に向けて、もう難しいち。それでも、やっぱ〔り〕お供えせんなならんからというて、お取次を頂き、お願いをしいしい、死んだり生きたりのような状態で、昨日あのように元気になってお供え〔が〕あったんです。
私は、今日あのお供えが、緋鯉と真鯉が本当に気持ち良さそうにして大きい水槽の中で泳いでおるのを見せて頂いて、おかげ頂いたなあ、助かったなあと思うて、なにかしらんあのお供えを見とっただけで有り難いと思った。どうでも、お供えをさせて頂きたいというておった、その緋鯉があんなにおかげで元気を頂いた。
今日は朝から私、丁度十一時頃迄御用をさせてもらった。散髪に来てもらいましたから、待ってもらって十一時過ぎましたでしょうか。それまで、もう、とにかく、お届帳のもう書きづくめでした。丁度二百五十名お取次させて<もらった。>今日は日曜日とお一日(ついたち)だというので、やっぱりありますね。少し風邪の具合が悪いから、まあ今晩はお参り出来んからと<いうようなことであったからでございましょう。>もう、とにかく、お届帳を書き続けさせて頂きました。その中にやっぱり、いろいろお願いもさせてもらわんな、お取次をさせて頂きました。
ところがね、今日、不思議ということはないでしょうけれども、不思議なこと《に》今日は、お酒がいっぱいここにお供えが来まいたんですよねえ。朝からね、ずうっと。それが全部月桂冠ばっかりでした。もう、話し合うたとじゃあなかのっていうくらい月桂冠ばっかりでした。御覧のように月桂冠ばっかりでしたよね。私は、だからそのことから、まあ今日はヒントを得て皆さんにお話しを聞いて頂こうと思うのです。
最近、ここで、もう、ここ、なんがでとうかあれですが、毎日毎日、和賀心時代ということが必ず言われます。和賀心時代、例えば、人間が月の世界に行けれるようになった時代。もう私どもは、ボタン一つで、例えば人間の心の中まで読むことの出来る程しのコンピュ-タ-時代。そういう時代にです、この1970年というお年柄は、そういう意味で人間の知恵とか力とか限界をもっていう、その限界の限りをつくされた年だと。
勿論、それがもっと進展していくことでしょう。おそらく月の世界に行けるなんて、それこそ夢物語。夢のまた夢だったでしょう。お月様は、まんまんしゃまとして拝ませて頂いた。そのお月様の世界に人間が行けれるという時代になったんですからねえ。だから、そのような発達を遂げた、それにはです、何億年か何千年とも分からない程しの歳月を繰り返し繰り返し、人間の幸せを願い、願わしてもろうた人達がです、いわゆる人間の力の限界、場合には医学万能科学万能によって、人間が幸せを得ようとして様々に苦労してまいりまして、今日今年(こんにちこんねん)という年は、そういう素晴らしい。
今度、大阪で万国博が行われるそうですがねえ、もう、その推移を集めたものだそうですねえ。先日、今度、万国博行き、それから夏の布教記念式に団体でお参りをするようにという、お勧めを頂きましてね。大変、値段も安い。そのところをですね、実際に日吉という先生が見においでられて、その規模の大きいのに驚いてしもうたと。とにかく八十年か百年かしなければ、あの博覧会はまた日本でおそらく行われないであろうがです、その規模の大きいのに、もう驚いてしもうたと。
それが日本で今度が行われるんだから、皆んなでお参り〔をして〕、そして、あちらの大阪の方に見物に行こうと<いうわけです>。ここでも、まあ、よりよりお話をしてですね、団体、とにかく二万円と三万円と二コ-スあるんですけれども、まあ行こうかと思い立とうというような話があっております。
というようにですね、その科学とか技術の推移をつくしたもの、しかもそれは、どういうことかというと人間の知恵、力をもって月の世界にまでも行くことが出来たという程しのことなのである。そこで、〔そ〕んなら、そういう、例えば技術者であり学者であ《る》人達がです、そういうものを作り上げてです、これでは人間が幸せにはなれないと。
これは、やはり心を大事にしなければならない。心ということを言うておりますが、私は、心だけではいけない。勿論、天地のお恵みというか、おかげにつながることの出来れる、和らぎ賀ぶ心。和らぎ賀ぶ心の時代が必ず来る。それは千年先やら、一万年先やら分からんのです。けれどもね、そういう時代が必ず来る。
例えば私のような人間が、例えば日本でいうなら総理大臣になるごたる時が必ず来る(笑)。頭が良かったり、弁説爽やかであるというだけではでけん。本当に幸せに人間がなれれる、本当のことを体得した人がです、世の中を支配する時代が必ず来る。いわゆる和賀心時代に、もう突入しておるということを、私はもう、毎日毎日皆さんに言っているんです。毎朝の御理解の内容にそのことを皆さんに聞いてもらっとる。
昨日〔は〕、三十一日で月末のお礼に皆さん参拝してみえて、皆さんで信話会を開くことに致しております。昨日は、朝参り組ばっかりでしたけど、三十五名集まっておりました。ここに、こう、お広前に輪を書いて、一時間半余りを信話会に過ごさせて頂いたんですけれども。
そん中で私が、最近、和賀心、和賀心いや和賀心時代ということを言っておりるが、「若先生、あんた、どう考えるかと。」どういうふうに<いうて>若先生申しましたらね、「初めの日に、和賀心時代ということを、先生が言われた時にはですね、もう、とてつもない大きなことばっかり言うてということだった。ところが、毎日毎日頂いておるうちにですね、確かにそうだと。和賀心時代が来る。地球上に住む人間、いわゆる人類の全てがですよ、全てにです、このことを教育しなければならない時代が来る。」と、いうようなお話をね【 】。「最近、それを本当にそうだと感じるようになった」と。「まあ、毎日毎日和賀心時代を聞かせて頂きながらそう思った」と、こう言うのですから、皆さんでもね、今晩初めて聞かれる方は、もうとてつもないお話しだと、お思いなりましょうけれども、世は正に大型時代です(笑)からね。只、私だけということではでけん。その私の心の中に芽生えてくる、育ってくる、その和賀心というものがです、地球上の人類の全てにね、それを普及していこうとする、もうそういうね、今迄は出来なかったんです。
ところがね、今年からね、もうこういうような知恵とか力では幸せにはならないのだ、もう心の時代が来るんだと。その、最高の学問を身に付けた人達がです、技術を身に付けた人達が、それを絶叫しておるからです。私達は、月の世界に行けれる程のことをしたんだけれども、これでは、人間は、幸せにはなれなかったということなんです。それに心の世界、只心の世界というてもです、いわゆる私どもが、幸せにつながることの出来れる心、それを「和賀心」と言うのだ、という訳なんです。
そういうお話を、まあいうならば、とてつもないお話ばかりのように聞こえます。例えば、今日も特別奉修委員の方達の御祈念の時に、そこの田中建設の奥さんが、今朝方、お夢を頂きました。それにはね、『私と久富勇さん達親子の方と一生懸命箱にみかんを詰めておる。五つづつ並べて、ずっとみかんを詰めておる』というお知らせであった。『次の場面が変わって、皆、こう、山の中のような所に行きよるとですね、小鳥が三《羽》遊んでおる。それを子供のみどりさんが、それをとらまえた。そしたらお母さんがね、せっかく親子三人であんなに楽しそうにしておるのに、可哀相だから放生してやんなさい、放してやんなさい』というところのお知らせであった。それを、田中さんが頂かれたと、こう言うのである。だから私、御祈念にかかろうとしておりましたから、すぐ御神前にて御祈念をさせて頂きました。そしたら、そのことをすぐ、そのことのご返事と思われる、お知らせを頂くんです。
とてもね、本当に人間がね、月の世界に行けれるようになっても、大変なことなんですよ、これ実際はどんなに考えても、それもね五年十年で出来たんじゃないです。何千年何億年という、それを経てからのことなんです。そういう大変なことがです、この時代に出来るようになったようにです、私どもがね、必ずあの世に行って帰って来れる時代が、必ず到来するち。それは、私は、月の世界に行くより容易いことじゃなかろうかと思うですね。現在の例えば、科学なら科学の進歩からいうたら。
人間がですよ、御霊の世界、魂の世界に行って、そして、また帰って来ることがでける。一分一厘間違うたら、そんかわりもう行きっぱなしたい【 】。月の世界でも、そうでしょうが。一分間違うたら、月の世界じゃない、とてつもない所に行くそうですから(笑)。だから間違うたら、とても大変なことですけれども、いわば、あの世行きの切符を手に入れたらですよね、あの世に行ってそして帰って来られる。そしてね、おかげを頂いておる御霊、おかげを頂いてない苦しみの御霊、例えていうなら。それを見て帰って来られる時が必ず来る。
だからです、私どもがこの世でね、本気で心の清まりを願わしもらい、本気でこの世で極楽行きの稽古をさせて頂き、只、閻魔様の御機嫌とりのような信心ではなくてです、もう本当に<髄>から打ち込んで、そのことに、私は、打ち込ませて頂く姿勢を正して、和賀心時代を、まず自分の心の中に自分の家庭の中にです、頂いて、世界中と言いたいけれどです、まず日本国中が、<その前に>まず、お道のいわば、それを看板のようにしておる「生神金光大神、天地金乃神、一心に願え、おかげは和賀心にあり」と、それを念じ続けておるお道の信奉者がです、いや合楽の信奉者がです、まずそういうおかげを受けなければならん。受ける姿勢を作らなければならないということ。
必ず、あの世行きが出来る時代が来る。来て行ってきた人がです、行って来たごと帰って来て、こういう、いわば土産話を聞いてです(笑)、慌てるのではなくて、現在私どもが今です、本気でそのことをなしておかなければならない。まあ、本当にいうならば、もうそれこそ皆さんの心にはきちんとこんかもしれません。けれども毎日聞いて御覧、そうだ、そうだと思うことになってくる。だから、合楽の方達がまず、そのことをです、そうだと、そうだと、だから全ての中から和賀心を追求していくということが信心であるということをです、本気で思い込ませて頂かなければならん時代に、もう今年(こんねん)は突入しておると。今迄は、人間の知恵や力で、まだ幸せというものを獲得しようと、例えば言うておったけれども、もうそれでは出来ないと、そこまでいった人達が言うておるんです。月の世界に極楽があるかと思うたら、もうそれこそ月の世界には石ころばかりの殺風景な所であるということが分かった。
今日の月桂冠の、私はそれから頂いてです、思うんです。月桂冠のげつは月という字。桂、いわゆる月の心、月の桂という、〔月の桂〕の冠と書いてある。私どもの中心、私どもの心の柱、そのものがね、いわゆる月桂冠でなからなければいけない。
ところがです、私どもの心というのは、いわば、いつも表現して頂きますように太陽をですね、まあ神さまと例えるならばです、私どもはお月様のようなものだと。それこそ昼を欺くような、いわば十五夜のお月さんを拝ませて頂く。お月様自体にそのような光があるのではない。行って来た者が実証しておる。光があるだんじゃあない。けれどもね、あれが、太陽の光を得た時に初めて光を放つのだ。
三日月の時は、三日月だけの光。半月の時には、半月さんだけの光であり、まん丸くなった時には、それこそ昼をも欺くような光、明るさというものがあるように、私ども人間という者にはね、もう本当に教祖がおっしゃる「障子一重が、ままならぬ人の身であり」、私どもは、丁度月のようなものだということです、人間というものは。
「いんやぁ、私は美しい心を持っとります、私の心は豊でございます」と、言うてもです。そんなことじゃない、人間というものはね、もう本当に、いわば、もうどうにも出来ない無力な者であるということ。そこに、宗教がある。私の心を円満に、円満に、円満にと、自分の心を円満にしていこうとするところにです、いわゆる神様の光がこれに反射する。そこに人間ではありながら、それこそ神様を欺くような光、人間の姿形をしておりながら、あの人は神様のような人じゃ、仏様のような人じゃということになってくる。世の中を明るくすることがでける、おかげが受けられるのである。
「俺は(おりぁ)、良か人間だ」と言うようなことに腰かけとったら、もう、そげなことじゃ決して本当のおかげにはなりません。それは生まれつき様々、大人しい人もあれば激しい人もある。鬼のような人もあれば仏さんのような人も、やっぱりありますけれども、そういう意味のものじゃない。信心によって頂かせてもらう「和の心」。
先程、久留米の佐田さんが、お届けされますのに、今朝の御祈念の時に頂かれたことがね、なんでしたかね、[心の不具者になってはならん]と、いうことを頂かれた。ですから心が不具である、心が不健全である為にです、いつも自分の心が真っ暗になったり、痛い思いをしたりしておる心の中に。心が暗い、やはり不健全だからなんです。ですから、信心とは、自分の心というものをです、健全にしていく稽古なんです。自分の心をいよいよ円満なのもにしていくという努力なんです。ですから、私どもが、例えば寂しい思いをしたり、腹が立ったりする時にです、「ははあ、自分の心が不健全である」ということを知らなければいけません。それが、この肉体がです、風邪をひいて熱があると、もう寝つかにゃおられんように、苦しんで〔いる〕ようにです、心が不健全であるから苦しいのです。心が健全であればです、例えば、どのようなことを言われても平気なんです。
昨日、日田のお酒屋さんですけれどね、綾部さんがその前日も参ってみえた。日田に行かれた方は御承知でしょうが、亀山亭という日田一流の旅館がございます。私が、菊栄会の皆なんと一緒に、四、五年位前に、そこへやらせて頂きましたが、なかなか、やはり一流のお店です。そこの御主人夫婦を、お道びきして参ってみえた。聞けば聞く程、難儀な問題がある。もう、ありとあらゆる神様にも参った仏様にも参った。そして、昨日、綾部さんが言われる。「もう綾部さん、私は、もう神様やら仏様には迷わんち。それこそ、なんとかの地蔵様にゃお日参り、毎日お百度参りじゃた。あんまり苦しいことがあるから。」そのお母さんていう方が。そして、帰られました。
帰られたら、綾部さん所が手前ですけん寄られたところが、「奥さん、とにかくもう降りらんで亀山亭の方に行ってっ下さい、大変なことが出来とる」と、こういう訳なんです。それで、もう自動車から降りんまま一緒に亀山亭の方に行かれたところが、それこそ大変なことが、やっぱ起きておった。
そのことで、お願いにみえておられた。何ケ月間それがそのまま眠ったようにしておったのが、その日になって向こうから、やって来ておる。とにかく、もう芝居で<しか>見たごとなかごとある悪人の、芝居で悪人の顔ちゅうのがありますよね。もう、それよかずうっとやっぱ、やすかごとある顔。もう、とにかく店員はガタガタ震えよったち、行った時。そうして、いうならば、もう子分ども連れて来てから、この亀山亭を打ち崩してしまうちゅうて、その息巻いておる時であった。そりゃ、まあ、綾部さんも中に立っておられて、それこそ、もう馬鹿んごと言われた。
ところが、「先生、昨日ばっかりは不思議なことでですね、和賀心時代、和賀心時代が自分の心の中《に》去来した」ち。もう、ずうっと何時間、晩の八時半迄じゃった。ところが、その顔色も変わらん。ニコニコしてから黙って聞いとられるもんですから、今度は向こうの方が段々折れだして、向こうの方が今度悪かごとなふうば言いだした。それから、まあ、おもむろに色々とお話させて頂いたらです、もう分からせて頂いて、おかげで向こうから二百万円貰うことで話が決まった。
それで、この亀山亭の御主人がね、やっぱ今日お参りしてから、一番口に先生が言いなさったことはです、「信心して変わったことが起きてきたら、有り難いと心得て信心せよ」ちゅうことじゃった。ところが、その御理解を頂いておったけれども、それが忘れちゃった。もう、綾部さんの御理解頂きながら、ここで御理解頂きようの聞いてから、「あなた達が、あげな御理解ば頂きなったでしょうが」、「そうでしたかの」ぐらいな感じ。まあだ、亀山亭の方は。だから、綾部さんの方がおかげ頂いた。
「確かに神様の働きというものは、素晴らしいことだ」と。「もう本当に私の和賀心ひとつが、今度の亀山亭を救うことがでけた。亀山亭は、おかげちゅう言いよるばってん、まだお礼参りするとも言わんから、実は今日はお礼参りさせて頂いた」と言うて、昨日お礼参り<して来ました。>
和賀心、もうそれこそ昔の私だったら、【 】それこそ、大変な喧嘩になっておったことであろうけれどもです、こちらが本当に、和賀心時代、和賀心時代を自分の心の中に思い続けさせて頂いたら、なにか、それこそ程度の自分よりか低い人が、もの言いよる<人ん>ごとあるような感じ。まあ子供が言いようるように聞こえる。時々にゃ、やっぱ、ほんなガクッとくるようなこと言う時にゃ、ちょっとこう、もうムカムカするけれど、もう和賀心、和賀心で辛抱して、まあ、おかげを頂いたというようにです、その和賀心というものは、そういうおかげにつながるもの。
ですから、私が和賀心いくら和賀心と言うてもです、もう私は毎日お礼ばっかり言いよりますち言うたっちゃです、それがおかげにつながらないなら、まだ本当なものではない。同時にです、私の心の中に腹が立ったり、またはイライラしたり、心が暗くなったり〔する〕時にはです、今こそ、自分が心の不具者であるということを悟らにゃいかんです。心が健全にならね、ひとっつもさわることないち。
例えば、今の綾部さんの話しを聞いておって、そう思うでしょうが。自分の心が和賀心、和賀心で思うておる時には腹が立たんの、そのこと〔を〕色々ひどいことを言われても。それが、その時心が健全だからなのです。腹が立つというのは、自分の心が不健全である時、自分が心の片輪者であるからなんです。だから、さわられるとヒラヒラしたり、痛かったりする訳です。
ですから、私は思うのです。和賀心を頂かせて頂く前に、どうしても自分の心の健全を願わなければいけない。そして、それをです、私どもの日々の中にです、様々な問題が起きて、そのことがモヤモヤしたり、腹が立ったり、情けなかったりするならです、そこのところをとっちめて、はあ、ここん所に傷があるんだなと悟らしてもろうて、それを癒す術を教えて頂くのが、ここだと、私は思うのです。そういう心になる時に、もうすでに神様の働きが始まるのです。そのことを神様が、こよなく喜んで下さるからなんですよ。
今朝は、麻生さん達が親子四人連れでお参りしてまいりました。そして今言う、その月桂冠を、いつもなんですか、黒松白鹿のあれをお供えされて<おるんですが>、今日黒松白鹿はなかったけんで月桂冠でよかと思いよったら、それとは、また別なことだった。
「先生、実はここで御祈念をさせて頂きよりましたら、昨日、『誰か分からんけれども、御神前から二本入りの月桂冠を下げて来てから、こうやって渡して下さる。それを、確かに自分が頂いた』お知らせを頂いた。御祈念中に。だから、実はこの月桂冠をお供えさせて頂きます」と、こういう訳である。
続いて家内がお届け致しますのにです、この二十八日の竹葉会にです、お参りをさせて頂いて、初めてあんな有り難い竹葉会を感じた。皆さんが一生懸命体験談を話されるのを聞いてからです、自分が思うた。
年子がおります。娘と息子が、小さいとが。分からんとばかり<です>。ですから、私が、いつもこの人を叱る。叱るだけじゃなくて叩く。そしてくさい、自分の心の中は苦しいとですよね。子供を叩かんならん程、苦しいんです。「本当にこげなことじゃあいけんと、私は竹葉会の方達の話を聞きながらそれを感じて、今日の竹葉会を境に、子供を怒るまい、叩くまいと思いました」とこう言う。
そしたら、その晩にお夢頂いておるのがね、『まっ白い布団《に》まっ白いカバ-が掛かっておる。こちらには、それを今度は、まっ黒いカバ-の布団に変えておるところを頂いた。』素晴らしいことだね。まっ白うしとるから、子供がちょっとすると、もう汚れ目が見える。汚れが見えるから、また汚した。今貼ったばかりの障子を、もう破った。はあ泥足で上がってからと言うて、それを怒ったり、叩いたりしておった自分がです、もうそのことがね、そのことは、もう怒るまい叩くまいと思うたら、そのお知らせを頂いた。
「どういうようなことでしょうか。」だから、あんたが黒いカバ-《を》掛けた。黒いカバ-ということは、くろうということは、苦労ということは、修業ということ。そのことを修業とさせて頂こうと思うたというのである。そのことが、麻生さん、御主人である麻生さんの上に月桂冠二本となって現れた。
私どもがね、本当に自分の心の、例えば、それを今日の御理解で言うならです、自分の心の、いわば不健全であるということ。自分が腹が立つということは。例えば、障子を破っても、畳を汚しても、兄弟喧嘩をしてもです、そういう元気な姿にふれた時にです、本当におかげ頂いておるなあと思えれる心が、反対に、今掃わいた所ば、また散らかした。今貼ったつ、もう破ったと言うて怒ったり、叩いたりしておる。同じ事柄なんです。だからそういうことでは、子供に対しても、あいすまん。今日の竹葉会を境に、私はそう致しませんということにならせて頂いた時にです、月桂冠の二本というのは、私は、あの人達夫婦のことだと、こう思うのです。
自分の心の中に、いよいよ円満なお月様を頂いていく、和の心を頂いていこうとする、その努力なんです。そのことを本気で思うただけで、神様は、おかげを下さっておる。お知らせ下さっておる。今迄、腹の立ちよったことが、かえって神様にお礼を申し上げるような心の状態こそが和賀心なのである。
ですから自分のです、不健全な心、自分の心の片輪者であるということをです、まず知らなければいけんです。それを知るのは、もう自分が腹が立ってたまらん、イライラしてたまらんという時には、あなたの心が、いわば不健全である時だと知らなきゃいけません。こういう不健全だからこそです、こう腹が立つなどと分からせてもらう時に、そこんところを金光様、金光様と、それをいわば言わしていく直していく精進努力をさせてもらう。そこから腹が立たなくなったり、いわばイライラしなくなったりするようなおかげ。
だから、和賀心を頂きたい、頂きたいと言うても頂こうとする前にです、まず自分自身の心の不完全であることを知らなきゃいけません。難儀を感ずる時に、これは自分が本当なものでない証拠であることを悟らなければいけません。
必ず私ども人間の、いわば、力で月の世界に迄も行けれるような時代になった。だからね、必ずあの世行きが、あの世行きち言うても死んでしまうとじゃない(笑)。あの世を見学に行けれる、旅行に行けれる時代が必ず来る。これは今、科学的にね、心霊科学なんかっていうのがありましょうが。御霊の世界を写真に撮ったりすることが出来る。一部にそういう学問もやっぱありよるから、これはもっともっとです、実際に私どもが行って帰ってこられる時代が来る。
そして見て来てから、なる程、いわば自分の心というものを大事にしなかった人達の悩みとか苦しみという、その姿にふれてきて、そして、それを聞いてから、はあ、そげなこつなら、いっちょん今からいっちょん本気で和賀心にならじゃこてというのじゃなくて、私どもがです、そこんところに気付かせてもろうて本気で和賀心時代をです、私どもの心の中に、まず開かせてもらい、それを家庭の上にも広げていくところのおかげ。それが同時に、社会にも貢献されていくというところにです、本当の意味での御用というものがあるんじゃないでしょうか。私はね、本当にそのことに、そのことの御用にです、これはもう一生涯打ち込むことであろうと思います。
地球上の人類がです、それを知るということ。和賀心にならなければ、人間の幸せはないということをです、知ってもらう為に私は、これからの一生を捧げても悔いのない素晴らしいことだと思うです。とても、そして私どもが、一代二代で出来ることじゃがざいますまい。何千年何万年かかるか分からんけれどもです、とにかく自分の、いわば心の中から、足元からです、和賀心時代を作っていかなければいけない。
合楽にお参りをさせて頂いて、夕べにも、そのお話が出たことなんですけれども、ひと月間の、いわば寒修業を振り返ってみてです、昨日色々お話がでてました。それで、「ひと月間にどういうようなことを私が言うてきたか。ずうっと、ひとつ思い出して、その一番印象に残っておるところを話して下さい」と、言うて色々皆さんに話してもらったんですけれども。
やっぱりですね、毎日毎日頂いておるけれど、忘れてしもうとるです。ですから、よおく、また考え出してからですね、まあ色々その言われる。吉野ハタノさんが、「今のこの和賀心時代を先生がおっしゃられるようになった前に、頂く心あらばさわることなしという時代がずっと続きましたね」ち。「はあ、そうだそうだ」それが、やはり十日位続いたでしょう。
「女が菜園に出て菜を抜く時、地を拝むような心あらばおかげがある。それを煮て食する時、神様頂きますという心あらばあたることなし」と、実際はあります。けれども、私は、さわることがないというふうに申しております。これは、食べ物だけのことじゃない。風邪でもそうなんだ。風邪をね、有り難く頂きよるけれども、まあだ、風邪の方が強いという時には、まあだ頂く心が弱い。まあだ、心が不健全だから、力が出てないからなんだということを知らなきゃいかんです。自分の心が健全になり、力が出来てです、風邪を頂きますという心になったら、糖尿病じゃろうが、足が萎えたっちゃ、その、やっぱりさわることのないおかげを頂いてきておるでしょうが、私の場合。
私は、皆さん、その今日は少年少女会で、丁度、この前の日曜の時に、皆んなで御祈念を致しました。御祈念会の後に、ここで御理解を一口。それで、教典を開かせて頂きましたら、そこんところを頂いた。だから、それは、なかなか女が菜園に出てなんて難しかと思うて、そのひとつ前のところを、私が読んで皆さんに何回も読みかえさせた。
それがね、「木の切り株に腰を降ろしても立つ時には、礼を言う心もちになれよ」と。その、み教えです。あの、ひとつ前の<ところと>。
そこで、私は、今日、皆が御祈念が終わって出てまいりましたから、皆に、「この前の御理解を覚えておるね」と、私が言いましたら、「覚えておる人は、手を挙げなさい」ち言うたら半分も挙げましたです。私は、けいすけ君に、「ほんなら、僕は、どんくらい覚えておるか」と、言うたらですね、ほんの字句的にちょっと違えとるだけで、それを、スラスラっと言いましたよ。何人かの人が、いわば、一週間前に頂いた御理解を、そのまま暗唱していましたよ。私達もですね、本気でやはりですね、例えば、ひと月ならひと月のことを、私どもが本当に自分の血になり肉になっておることなら忘れられないですよ。
嘉郎さんが、昨日、言うております。「もう、とにかく日々の御理解を一言でもよいから、それを取り組んで行ずること以外にはない。そこから、神様を身近に頂くことが出来る、体験が新たに生まれてくる」と、言うております。ですから、その御理解そのものがです、和賀心にならせて頂く為の全てでございますから、本当に御理解を身をもって、行じさせてもらう。
例えば、そんなら、今日は、和賀心時代を本当に、自分の心にも頂こう、家庭にも頂こうという前に、自分自身がまず心の不具者であるということを知ってです、不具者である証拠に腹が立ちよろうが、不具者である証拠に心が暗くなりよろうが。だからです、自分の心の不具者であるという、そこのところの不完全なところをです、本気で私どもが、例えば昨日の綾部さんじゃないですけれども、まだほんなもんじゃないけれども、御理解を頂いて帰って、有り難い有り難いで帰らしてもろうて、和賀心の中にそういう、それこそ目の前が、足がガタガタ、いうならば震うようなことが起こっておったけれどもです、それを、和賀心時代、和賀心時代で受け続けたとこう言う。その後に生まれておる、その円満なおかげというか、思いもしなかった二百万円が入ってくるといったようなおかげにまで話が進展していっておるです。
ですからね、どうでもひとつ私どもが頂きますみ教えを本気で私どもが行じさせて頂く体勢を作らせてもらって、それぞれの中から自分の心の不完全な、いわゆる健全でない心を健全にしていこうという努力。そこから生まれてくるのが和賀心。いわゆる大きな、いわば十五夜のお月様のような円満な心、これになる程、私どもには、障子一重がままならぬ人の身であり、それを月の世界のようにです、それこそ何もない石ころばっかりのような私どもではあるけれども、私どもの心が円満に丸くなる時にです、神様のおかげは、これで燦燦(さんさん)として振り注ぐように頂けれるのが喜びであり、それが光である。
あの人は、やはり仏様のような人、神様のような人じゃと言うようにです、お月様がまん丸い時には、昼を欺くような光を放つように、私どもの心がです、いわゆる和賀心を求めての信心の中から生まれてくる光というものが感じられるおかげを頂く。そこにはですね、例えばそういう敵役(かたきやく)の方までも、助かっていくというような働きになってくる訳なんです。
だから、そこから逃れようとするのではなくて、「それを煮て食する時に、神様頂きますという心あらば」と、おっしゃるんですから、その心あらばですから、どんなに風邪をひいても、どういう時でも頂きますという心あらばです、さわることのないおかげを頂かなきゃならん、一遍ではでけん。「頂きます」と言いよるばってんやっぱ熱がでました。まあだ不健全な、まあだ力が足りないのだと思うて、そのことを繰り返し繰り返し教祖様が、おっしゃるはずはない。
私どもは、その和賀心時代、そして頂くということでしたね。頂く心あらばさわることないという、そういうようなことを、例えば、今度一月から開かして頂いておる寒修業で、まあお互い体得したということにしてです、これから、まあだ何日ですか、丸四日間ありますかね、だいたい四日迄でしょ。だから五日が御礼の御祈念を皆でさせて頂いて、それから先程お話があっておりましたように、平田会長がおみえ〔にな〕るそうですから、平田会長のお話を頂いて、まあ色々信心を練り合わして頂こうということになっております。
その日は、ここの名物であります、茶粥の会もあるそうですから、随分おなかを減らしとかなければ食べられないお粥です(笑)。ですから、それこそ茶粥に舌鼓を打てれるような体の状態を作って、茶粥のだいかいにも、それから寒修業の締めくくりの信心も頂かせて頂きたい。まあ、四日残っちょう(のこちょう)、その四日残っておる、その四日がどういうふうにまた変わってゆくことであろうか。ひと月の間に段々信心の内容というものが変わってきておる。お話内容というものが変わってきておる。どういうふうに変わるか私自身も楽しんでおります。
どうぞ、皆さんもひとつ本気でですね、まあ今迄参加出来なかった方は、後の四日間でもいいじゃないですか。ひとつ本気でね、ひとつ寒修行に参加させて頂いて、そして寒修行を有り難く終わらせて頂きたいと思います。
どうぞ、宜しくお願い致します。